前回にひき続き正法眼蔵生死の4回目です。
「佛となるにいとやすきみちあり。
もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふこころなくて、心に おもふことなく、うれうることなき、これを佛となづく。またほかにたづぬることなかれ。」
ここのところは非常にやさしい文章で書かれていますので現代文に直す必要もないかもしれませんが、あえて書いてみますと、仏になるのに非常にやさしい道がある。もろもろの悪をつくらず、生死に執着する心がなく、一切の生きとし生けるものに慈悲深くし、上位の人を敬い、下位のひとを慈しみ、全てのことを嫌うことなく、願う事もなく、心に思うことなく、憂うることがないこと、これを仏と名づける。又ほかに尋ねてはならない。
即ち、仏になるのには哲学的な難解な事を思考することが必要なのではなく、日常の行いにおいて、悪いことをせず、全てに執着せず、慈悲深く、人を敬い、嫌わず、願わず、頭で考えず、心配しないこと、これらの事で仏になるのです。
そんなはずはない、仏とはもっと高尚な何かがあるはずだなどと決して思ってはならない。とこのように道元禅師は言われております。
まことに、仏とはこのような日常の行いにより自ずと現れるものであり、哲学的思考の結果得られるものでは決してないものであります。
しかしここで、坐禅を一途に指導された道元禅師の教えにしては少しばかり腑に落ちないのは上記の“いとやすきみち”中に坐禅がはいっていないことであります。
この理由を考えてみますと、この正法眼蔵生死が出家者ではなくて在家者もしくは宗旨の違う出家者を対象に書かれたことにあるのでしょう。もしくは道元禅師としては、坐禅は当然のこと、言うまでもない事だからかもしれません。
又坐禅そのものが仏の現れた姿でありますから、上記の“いとやすきみち”を行えば坐禅と同じことですよと言われているのかもしれません。
いずれにしても“いとたやすきみち”とは言っても、この一つ一つを実際にはどのようにすればよいのか、簡単なことではないでしょう。寝転んでいて出来ることではありません。
そこでやはり、坐禅等の仏道修行をベースにして生活をすることにより、日常生活全体を整え、身と心で無常を感じ、現在の瞬間の一瞬一瞬を肯定出来るようになれば、結果として自ずと“いとやすきみち”のすべてが完成してくるものではないでしょうか。即ち、“いとたやすきみち”といっても“修せざるにはあらわれず”(正法眼蔵弁道話)という事であり、そしてこの事は単に生死に対してのみならず、人生の四苦八苦のすべに対して言えることだと思います。
正法眼蔵生死終わり
年号不記

願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に佛道を成ぜんことを。
十方三世一切佛
諸尊菩薩摩訶薩
摩訶般若波羅密
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